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コンスタンティン・フィップス (初代ノーマンビー侯爵) : ミニ英和和英辞書
コンスタンティン・フィップス (初代ノーマンビー侯爵)[こうしゃく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はつ]
  1. (n,adj-no,n-suf) first 2. new 
初代 : [しょだい]
 【名詞】 1. first generation 2. founder 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [こう]
  1. (n,n-suf) marquis 2. lord 3. daimyo 
侯爵 : [こうしゃく]
 【名詞】 1. marquis 2. marquess 

コンスタンティン・フィップス (初代ノーマンビー侯爵) : ウィキペディア日本語版
コンスタンティン・フィップス (初代ノーマンビー侯爵)[こうしゃく]

初代ノーマンビー侯爵コンスタンティン・ヘンリー・フィップス(、1797年5月15日 - 1863年7月28日)は、イギリスの政治家、外交官、作家。ガーター勲章勲爵士、バス勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士、ナイト・グランド・クロス勲爵士、枢密顧問官1838年にノーマンビー侯爵に叙位される前は連合王国貴族の爵位「第2代」で、1831年にマルグレイヴ伯爵を相続する前は儀礼称号の「ノーマンビー子爵」で称された。
== 経歴 ==
第3代マルグレイヴ男爵ヘンリー・フィップス(後の初代マルグレイヴ伯爵)と妻のマーサ・ソフィア・フィップス(旧姓マリング)の間の長男。父の初代マルグレイヴ伯爵はランカスター公領尚書()・外務大臣海軍大臣()を務めた軍人・政治家。また伯父に軍人の第2代マルグレイヴ男爵がいる。
ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。在学中の1815年には、の第2代会長を務めた〔。
1818年ヨークシャースカーブラ選挙区選出の庶民院議員となるが、カトリック解放に賛意を示すなど一族の政治方針に異議を唱えて1820年に辞職し〔スカーブラ選挙区(定数2)は、ラトランド公爵家とマルグレイヴ伯爵家の強い影響下にあり、両家から議員を一人ずつ出すのが慣例化していた。〕、以後2年間イタリアに住んだ。帰国後1822年から1826年までノーサンプトンシャー州選挙区選出の庶民院議員を務め〔、政治的なパンフレット議会での演説によって高い評価を得た。ではヨークシャー州選挙区から庶民院議員に選出され〔、1830年まで務めた。議会ではジョージ・カニングの支持者であった。
1825年の小説『』や『』の作者としてこのころ既に名が知られており、1828年には『』を上梓した。
1831年、父親の死によりマルグレイヴ伯爵を相続し、貴族院議員となる。1832年より1834年までジャマイカ総督()となり当地に赴任。1834年、第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムので王璽尚書として入閣。
1835年に発足したでは当初へ任命され、総督在任中の1838年に、「カウンティ・オヴ・ヨークにおけるノーマンビー侯爵」()に叙位された〔彼の曾祖母にあたるキャサリン・アンズリー(1681年頃 - 1743年)は、イングランドジェイムズ2世の庶子キャサリン・ダーンリーと第3代
の娘であるが、キャサリン・ダーンリーはアングルシーと離婚後に初代ノーマンビー侯爵ジョン・シェフィールド(後の初代)と再婚している。〕。1839年2月に陸軍・植民地大臣となり入閣、同年8月に内務大臣()へ転任した。植民地相として彼は、に対してニュージーランドの統治についてイギリス政府の方針を書簡で指示した。
1846年から1852年までフランス駐箚イギリス特命全権大使としてパリへ、1854年から1858年までとしてフィレンツェへ赴任。1857年に出版されたパリ駐在中の1848年の日記『』は、ルイ・ブランとの間で激しい議論を招いた。さらに公職からの引退後にもフランスイタリアに対する政策について第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルウィリアム・グラッドストンと衝突した。
1832年枢密顧問官へ列せられ〔、同年にナイト・グランド・クロス〔、1847年バス勲章ナイト・グランド・クロス、1851年ガーター勲章を授けられた。
1863年ロンドンで死去。66歳。爵位は一人息子のが相続した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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